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2005年6月26日 (日)

ハンゲショウ(半夏生か半化粧か)

hanngesyou  半夏生が近づくとハンゲショウの花の周りの葉が白くなる。 ドクダミ科ハンゲショウ属のハンゲショウは不思議な植物で、ドクダミと同様に原始的な花は花弁を持たず、花序に向かい合う葉の一部が花弁の代わりに白く変色するが、それもカタシログサの異名の通り中途半端で、化けそこなった狸の半化粧と言った一種独特のとぼけた味がある。

その名前の由来を調べると「半夏生の頃に花が咲くからハンゲショウと言う」、「ハンゲショウの花が咲く季節を半夏生と言う」の二つの説があって、「卵が先か鶏が先か」の論争に似ていて捕らえどころがないが、半夏生と半化粧を掛けた古人のネーミングには頭が下がる。

いずれにしても、半夏生は八十八夜・入梅・二百十日などの七十二雑節の一つで、夏至から11日目に当たり、「この日をもって梅雨が終わる」「天地に毒気が満ちて毒草の半夏(サトイモ科のカラスビシャク)が生える」「農家では田植えが終わって田(サ)の神を送る日」「関西では食養生のため蛸を、福井では丸焼きの鯖を食べる日」など民間伝承を列挙してみると、梅雨も終わりに近く、真夏の猛暑を迎える区切りの日というニューアンスを含んでいるようだ。                                                                                                             hanngesyou

その1年で一番うんざりさせられる季節に咲くハンゲショウは、田植えを終わったばかりの田の面を吹き渡る一陣の風のような爽やかさを感じさせてくれる花である。北米原産のアメリカハンゲショウは花穂が大きいが、葉は白くならない。

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2005年6月24日 (金)

ムラサキカタバミ(花の世界にも市場原理が・・・)

murasakikatabami 花の世界にも市場原理が働いていて、希少なものは必要以上に高値がついたり、追い掛け回されたりするが、ポピュラー化すると見向きもされなくなる。

南アメリカ原産のこの花が、幕末(文久2年=1,862年の記録がある)に輸入された時、好事家は鮮やかな濃緑色の葉の間から、次々に紅紫色の花を咲かせるのを見て狂喜したに違いない。寒さにはやや弱いものの、鉢植えによく、路地に植えっぱなしにして世話をしなくても、毎年美しい花を見せてくれるので「キキョウカタバミ」などの愛称を付けて珍重した。

このような花はほかにも多い。例えばホトケノザやヒメオドリコソウ・オオイヌノフグリなどは、一つ一つの花は美しいのに、余りにも多いので誰も目に留めない。

ところが、一見して弱々しいムラサキカタバミが驚異的な繁殖力を示して、あっという間に西日本一帯に広がってしまったのである。 種で増えないこの草の秘密は地下の鱗片にある。株を引き抜くと数百個の鱗片が地中の残り、土地を耕すと周辺に飛び散って、それぞれが芽を出すと言う栄養繁殖を繰り返すので 、和歌山県のミカン畑などでは、畑の肥料を横取りする「除去し難い強害雑草」として忌み嫌われているらしい。

6月14日にアジサイの矢田寺を訪い、樹下に咲くムラサキカタバミが余りにも美しく思えたので、アジサイをそっち除けにして撮影した。

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2005年6月19日 (日)

カノコソウ(19世紀の精神安定剤)

kanokoso 花岡青洲がわが国初の麻酔剤を開発した際に、チョウセンアサガオとともにこのカノコソウが使われたと言うから、漢方で「吉根草」、西洋で「天使の睡眠薬」または「19世紀の精神安定剤」と呼ばれるこの草の向精神作用や精神安定効果は、昔から有名だったらしい。

インターネットで検索していて、読売ジャイアンツの高橋吉伸選手が、この草の成分の入ったサブリメントを愛用していると言う記事に出合って驚かされたが、最近になって睡眠促進・鎮静効果・自律神経のバランス調整・抗炎症効果がある半面で副作用が少ないため運動選手や芸能人を中心に、静かなブームが広がっていると言う。

属名Valerianaは、ラテン語のValeo(健康である)に由来すると言う説かあるところから見ても、古来重要な薬草だったことを示しているようだ。                                kanokosou

ハルオミナエシの異名を持つ通り、入梅直前に、オミナエシによく似て高さ30~80cmの直立した茎の先端に散房状の花序をなして多数の小花を咲かせるが、白い蕾と薄紅色の花弁が鹿の子模様に見えて美しいので、この名が付いたと言う。

元来、植物図鑑などで「やや稀な植物」と記載されている上に乱獲が祟って、近畿地方のレッド・データでは絶滅危惧種C,京都府では絶滅寸前種に挙げられているが、私の知る限りでは西播磨の佐用から鳥取県の智頭に至る因幡街道沿いの谷間にはこの草が多く、民家の庭で栽培されているケースも散見されたので、その謂れを聞いたが、確認するに至らなかった。

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2005年6月17日 (金)

ガクアジサイ・隅田の花火(雨に荷風と蘆花を想う)

suidanohanabi 梅雨の晴れ間を見て、庭のガクアジサイ(隅田の花火)を撮影した。

「終日曇り、午後に小雨」の予報が外れて、夜半からの雨が残っていたので、家居を決め込み、「隅田の花火」「隅田川」「永井荷風」「断腸亭日乗」と言う単細胞的な連想から、書架の「断腸亭日乗」上下2冊を取り出し、拾い読みして1日を過ごしたが、久し振りに目を通して、日記文学の最高峰といわれるにしては、後半が色褪せて見えるのに驚いた。

「日記の虚実」を書いた紀田順一郎の著書にもある通り、この日記のクライマックスは終戦直前の東京大空襲で自宅の「偏奇館」が、膨大な蔵書とともに焼け落ちる箇所で、それ以降の記述は急に精彩を失っていったが、その最大の原因は戦中の消極的な人間関係に起因すると言う。 同感である。

時代は異なるが、同じような傾向が明治の文豪徳富蘆花にも見られる。両者共に壮年の或る時期に、親・兄弟・親族との確執から交わりと断つと同時に世俗の付き合いからも遠ざかり、荷風は孤独の、蘆花は夫人と女中の3人だけの狭い世界に沈殿したことが、前半生の華々しい活躍に比して、後半の知的生活面の展開が貧弱で、竜頭蛇尾の生涯を送らざるを得なかった主因であるように思える。

この日記に触発されて、「定年後の人付き合いを大事になさいよ」と言う平凡ながら貴重な教訓を残してくださった先輩の言葉を思い出すきっかけになったのだから、梅雨の雨とアジサイに感謝せずばなるまい。

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2005年6月16日 (木)

ヤマアジサイ(ヤマアジサイも七変化)

yamaajisai 江戸時代は、上は将軍・大名から下は裏長屋の住民に至るまで、園芸に熱中し、手当たり次第に在来植物の品種改良や変わり咲きの作出に取り組み、世界中が目を見張るような成果を挙げたのに、日本特産のアジサイの改良には冷淡だったらしい。 その原因は、

  1. どこにでも生えている、見慣れすぎた植物だった
  2. 墓地や庭の裏手に植える陰気な植物とみなされていた
  3. 花弁(萼)が散らないので嫌われた
  4. 挿し木でいくらでも増えるので、園芸職人が力を入れなかったyamaajisai

ことにあったようだが、これに反し、1787年に稀代の名プラント・ハンターといわれたバンクスがヨーロッパに持ち込んで以来、アジサイの品種改良は欧米が主導権を取り続け、戦後改良された鮮やかな新種の花が続々と輸入されるに及んで、遅ればせながら日本でもブームの火が付いた。

ミセスクミコと言う日本最初の登録品種(1992年のフロリヤード最高賞受賞)を作出した群馬県の坂本氏が有名だが、ユニークなのは京都の桂高校で、片山一平先生に指導された「草木クラブ」がクラブ活動でアジサイの品種改良を手掛けて、次々に新しい品種を生み出して、園芸業者を通じて販売ルートに乗せ、全国に頒布しているが、品種の命名も奇抜で、「ちちんぷいぷい桂の地球=ほし」「桂のろくめいかん=鹿鳴館」「桂夢衣=かむい」など噴出さずにいられない。

6月に里山を歩くと、ヤマアジサイ・ガクアジサイ・コアジサイ・コガクウツギ・ノリウツギなどアジサイ属の花が次々に花を咲かせて楽しませてくれる。

個人的には煌びやかな園芸品種よりも原種の方が余程好ましいと思っているが、6月14日にアジサイの名所矢田寺を訪い、「七変化」の異名の通り、多様な花を咲かせたヤマアジサイの改良品種が、野性味を残しながらも近代味を感じさせるのに心を惹かれ、「これもまた良し」と頷かされた。

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2005年6月13日 (月)

クチナシ(心に滲みる山崎方代の歌)

kutinasi くちなしの白い花なり こんなにも  深い白さを見たことがない   

                              山崎方代

私はひそかに、クリナシの花の賛歌はこの一首で足りると思っている。

 山崎方代、大正3年甲府に生まれる。 8人兄弟のうち5人を病死させた両親が、「生き放題、死に放題にせよ」突き放して名付けた通り、酒を愛し、歌を愛し、好き放題に振舞って放浪の中で71歳の生涯を終えた。

第2次大戦で片目を失い、もう一方の目は0・01の弱視と言う殆ど失明に近い視力で見るクチナシの白い花は、方代の深い心の闇の中に、ほのかに浮かび上がる歌の心の象徴だったように思える。

実際、クチナシの深い白さは格別のもので、毎年なんとか表現して見たいと、あれこれ試みるが、残念ながら私の技術では手に負えないが、6月4日に待望の花が咲いたので、敬意を表してカメラに収めた。

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2005年6月11日 (土)

アメリカオニアザミ(ヨーロッパ生まれのタフな奴)

amerikaoniazami アメリカでは「Bull thistle=牡牛薊」、イギリスでは「Spear thistle=槍薊」と呼び、ヨーロッパ原産だがアメリカを経由して渡来したため、日本では「アメリカ薊」と名付けられた。実にタフな植物で、草丈1mを超える全体が鋭い刺で完全に覆われ、四方八方へ突き出したその刺が栗の毬よりも硬くて鋭いので、アメリカの草原では、獰猛で知られるバッフアローや雄牛も怖れて近付かないないと言うから、その威力の程を知ることができよう。

北海道へは、1,957年(一説では1,960年)に渡来、帰化植物としては新参者ではあるが、その強烈な繁殖力にものを言わせて、瞬く間に全国に広がり、今では牧場に於ける最も除去し難い強害雑草の一つとされている。

手元に2004年7月7日付けの朝日新聞の切抜きを持っているが、それによれば世界文化遺産への登録が期待されている知床岬でもアメリカオニアザミが蔓延り、ボランティアがチャーター船に乗り込んで出掛け、駆除に努めているが、毎年1万株を除去しても、繁殖力がそれを上回って追いつかないと書かれている。悪食で知られるエゾシカも、この草だけは敬遠するらしい。

関西では、1、973年三重県で発見されたという記録があり、吹田市では1,980年前後に見つけて以来継続観察してきたが、当初JRの駅の構内で散見されていたものが、同心円的に広がり、今では駐車場の片隅や道路のコンクリートの割れ目など、いたるところに見られるようになった 。 お宅の庭にも紛れ込んでいませんか。

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2005年6月 9日 (木)

エゴノキ(トトロの里の思い出)

egonoki 平地では、とっくに咲き終わったエゴノキが六甲の摩耶山では満開で、登山路には落花が雪のように散っていた。 白くて清楚なエゴノキの花は郷愁を誘う花である。

昭和40年代の半ばに東京へ転勤になって西武池袋線沿線の清瀬に住んだが、当時の清瀬には、アニメ界の巨匠宮崎駿が描く「隣のトトロ」さながらの武蔵野の面影を残す雑木林が、そこここに散在して、春ともなれば林縁にヒトシシズカやタチツボスミレはひっそりと咲き始め、林の木々の芽が膨らむと同時に、北の斜面にカタクリが咲き揃い、クサボケが朱色の花を、イカリソウがピンクの花を咲かせる頃、林の下は花達の競演の舞台と化した。花が終わると雑木林は一斉に葉を延べ、鎮守の森のクスが新緑に衣替えするのと期を一にしてエゴノキが白い花を咲かせる。社宅の裏手がエゴノキの林で、枝一杯に咲いた花が風に吹かれて、ボタン雪が散るように舞い落ちる風景を未だに忘れることができない。

やがて、東京の郊外は土地乱開発の嵐に見舞われて、のどやかだった雑木林が一瞬にして宅地に変わるという、アニメ「平成ぽんぽこ狸」の時代に突入して行く。

エゴノキの花を見る度に、「あれが最後の武蔵野の風景だった」と言う郷愁にも似た懐かしさが甦る一方、かろうじてその終焉に立ち会うことが出来たのを、喜ぶべきか、悲しむべきか、複雑な思いに駆られるのである。

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ヤナギハナガサ(別名を三尺バーベナと呼ぶ)

yanagihanagasa ヤナギハナガサを三尺バーベナと呼ぶが、三尺(1m)どころか、草丈五尺(1・5m超)に達するものがある。英名をブエノスアイレス・バーベナと言う通り南米が原産で、現地ではパンパスと呼ばれる大草原に多く見られると聞くが、戦後輸入して栽培されていたものが逃げ出して野生化し、西日本を中心に広く分布している。

細長い茎は四角で、全体に剛毛に覆われているためざらざらしている。茎は上部で枝分かれし、先端に5弁で径3mm内外の小さくて淡い紅紫色の花を密集してつけるが、写真で見る通り花笠踊りの花笠そっくりである。

都会では貴重な蜜源になっているらしく、 一日中蝶が訪れる。

都会の近郷が荒れていると言うのは、昔の話で、今では園芸植物や帰化植物を含め花が溢れている。花が増えれば蜂や蝶が集まり、鳥が帰ってくる。吹田市と茨木市の境を流れる大正川の流域も、一寸したサンクチュアリになっていてマルハナバチやミツバチが花に群がり、アゲハチョウが飛び交う。時にはナガサキアゲハも姿を見せるが、今日は5分置きに列車が行き交うJRの線路から僅か2-~30m離れた支流でカルガモが7羽の雛を連れているのに出くわして驚いた。強い除草剤を流していた田圃がマンションに変わり、下水道が整備されて自然が甦りつつあるようだ。

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2005年6月 2日 (木)

マロニエ(マロニエの花が赤くなった?)

maronie 「パリのマロニエ」ではありません。新装なった高槻市JR駅前のマロニエ、もう少し正確に言えば「ベニバナトチノキ」と言うべきでしょうか。

大戦後のフランス映画とシャンソンに憧れた世代には、シャンゼリゼ通りのマロニエの並木と言えば、甘美な夢の対象で、シャンゼリゼ通りが写し出されて、マロニエが白いローソクを立てたような花を咲かせている風景を見るだけで、ため息をついた方も多いことでしょう。

東京に勤務していた頃、霞ヶ関の桜田門通りに明治年間に植えられたマロニエ並木があると聞いて、わざわざ見に行ったことがありましたが、その花も白色でした。ところが最近になって赤い花のマロニエが多くなったことに気づいて調べて見ると、従来の「マロニエ=セイヨウトチノキ」とアメリカ原産の「アカバナトチノキ」を交配させた「ベニバナトチノキ」に人気が出て、公園樹や街路樹として植えられているものの大半はこの木だと言う。 迂闊でした。

私個人としては、わが国には花も大きくて樹木としても立派な「トチノキ」があるのに、どうして「マロニエ」「マロニエ」と騒ぐのか、いささか不満ですが、この写真のように、 高層マンションと青い空に配するには、鮮やかな緑の葉とピンクに黄色が混じった「ベニバナトチノキ」の方が、より近代的な風景と言えるかも知れませんね。保守的なパリの市街にも赤いマロニエが咲いているのでしょうか。

ヨーロッパ帰りの友人曰く、「パリはいざ知らず、ウィーンのマロニエは赤色でした」。

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2005年6月 1日 (水)

ノハラナデシコ(ダイアンサスの原種の一つか)

naharanadesiko 散歩の楽しみの一つとして、例年と同じ時期に同じ場所で、同じ花に出合うことが挙げられる。一昨日に出合ったこのノハラナデシコは、ヨーロッパの原産で、1966年に那須で、1967年木曽で発見された帰化植物としては新参者だが、その後急速に生息域を広げたらしく、今では全国に分布している模様である。

(わが国では人間よりも植物の国際化の方が数段進んでいるらしい)

ヨーロッパから輸入した道路の肩崩れ防止のための「吹き付け用の種子(ウィーピング・ラブ・グラスなど)」に混入して渡来したと推定されており、道路の肩道や川の土手で多く見られる。草丈30~40cm、茎の頂上に径1cm内外の小さな花をつける。花弁は5枚で平開し、ピンクの地に白い斑点が散らばって美しく、しゃきっと直立する草の姿も好ましい。

園芸品種のカーネーションやダイアンサスは古くからヨーロッパで栽培されて品種改良が進んだが、その過程で、このノハラナデシコの血も混入していると言う話を耳にしたことがある。

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セイヨウノコギリソウ(ハーブ界のスーパー植物ヤロー)

seiyounokogirisou1 この平凡な帰化植物を「セイヨウノコギリソウですよ」と話しても、余り関心を示さないご婦人に、「これが万能ハーブのヤローです」と話すと目の色を変えて「どこに、どこに」とおっしゃる。

ヤローは、ギリシャの英雄アキレスがトロイ戦争で負傷した兵士の止血に用い、中国の秦の始皇帝が自分の行く末を占うのに使ったと言う伝説のハーブで、薬としての効果の範囲は、骨・関節・肝臓・脾臓・胆嚢・肺・前立腺・睾丸・子宮・甲状腺など人体の殆どの部位の病に及び、葉を噛むだけで歯痛が止まり、虚弱体質・アレルギー性の花粉症に至るまで、とどまる所を知らず、いずれもその効果は抜群だと言うから驚かされる。

更には、1枚の葉っぱで手押し車一杯分の堆肥の原料の分解を促進し、この植物を庭に植えて置くだけで、周りの植物を活性化するばかりでなく、病虫害を予防する。若い葉は「茹でる・炒める・煮る」どの調理方法にも適し、生でサラダ・リキュールの香り付け、乾燥して、風邪の予防・消化不良・体内浄化に効き目のあるハーブティのほか、入浴剤・ポプリ・ドライフラワー・草木染の染料にに利用し、スエーデンでは「フィールド・ポップ」と称して、ビールの醸造に使った。

愉快なことに、ヨーロッパでは、「この草を枕の下に敷いて眠れば恋しい人の夢を見る」と真剣に信じていると伝え聞くが、これだけ有用な植物が、都会の真ん中の川の土手に無造作に生えていて、誰一人足を止めることがないのも不思議と言えば不思議である

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